第9回 菅谷慎二さん
1.がんがわかったきっかけについて
白血病、口腔がん、舌がん(わかったときの生活環境、体の状態、今思うと)
~急性リンパ性白血病/1996年発見、再発を経て1998年骨髄バンクより造血幹細胞移植~
今後、潮流になるかもしれない週休3日とは違う、隔週半ドンでの土曜日出社の入社半年頃のある日。
「菅谷!真っ青だぞ顔色!」
「業務命令!即帰宅!」
御意とばかり、会社近くの昔気質の魚屋で、一度食べたかったにぎり寿司を一折買って帰りました。
(結局これが入院前・移植・退院後、何年かのちに解禁するまでの最後の生食でした)
見慣れたハズの顔を、使い慣れたカガミで覗くと、血の気という一切の「赤」が何処かへ消え去っていました。
“誰!?” … “うわっ、俺じゃ~ん!”
これが人生1回目の大病の始まりでした。
今思うと、入社間もない若造の顔色一つ気遣って(「新人大丈夫か?」って見ていただけかも。いやそうに違いない)見ていただいていたことを感謝しています。そんな環境がなかったらと思うと、にぎり寿司をいただくたび、顔が青く(鯖)なります(鯖アレルギーの方すみません)。
~右頬粘膜がん/2015年、切除術~
甲斐バンド 40th Anniversary year、だった2014年。もう7年も前のことで、口腔内の違和感を最初に感じ始めた正確な時期は忘れましたが、口内炎(か?)がなかなか治らないなぁの状態が続いていました。食事を気持ち良く食べることもままならず、さすがに痛みも強くなってきていました。
そんな折、たまたま目にした新聞折込のタウン情報誌に、「無料口腔検診・横浜市中区で初!」なる記事。
街の歯科口腔外科でも診ていただいたのですが、別の目で診てもらうのもよろしかろうと、応募の末当選。
検診時、基礎疾患のこと、定期検診をしていることを伝えると、「通院している病院には治療履歴もあるでしょうから、紹介状を書きましょう、そちらでもう一度診察を受けてみましょう」と、相成りました。
おやおや?
5年程前にようやく再就職が叶い、初めての仕事を一段落させた頃だったと記憶していますが、少し雲行きがアヤシイことに。
後日、職場を早めにあがらせていただき常連の病院へ。
「菅谷さん、生検してみましょうか…」
「あー、やっちゃって下さい」
今思うと、ためらいも、なんなら「心配」の二文字も、全く感じていなかったように思います。
おそらくこの時、社会復帰を遂げて、仕事をやりながら体力がついた実感と、僅かな自信があったからかもしれません(再就職のお話はまた別の機会に)。
これが人生2回目の大病の始まりでした。
ご存知の通り、ここからは治療前の検査検査の始まり始まり。ここで実施したCT検査で、造影剤によるアレルギー反応の薬疹が出て、本編が始まる前にスピンオフを演じてしまいました。結果、手術実施は約1か月後になるのでした。
~右舌上皮内がん/2018年、切除術~
オリンピックの年に、がん保険に加入できるかな?
血液内科の定期検診はとっくに年1回となり、口腔外科は主治医が変わり2か月に1回のペースとなっていた頃、舌先から右側横にぐっとそのまま行った後ろ(もう!どこかわかります?)に、白板症があるのがわかりまして、ご多分にもれず経過観察となりました。
その後、何回目かの検診で「菅谷さん、生検してみましょうか…(パート2)」がやってまいりました。正直申しまして、めっちゃ痛かったです!まぁー麻酔の麻酔の麻酔が欲しいと心底思いました。なんとも言えない感覚が舌を走る感じ。抜糸の「パチン」っていう音は私苦手です。
これが人生3回目の大病の始まりでした。
こうしてがん保険加入へのささやかな抵抗は砕かれました。
病院から家族に電話したあと、会社への報告は、なんともやるせなく、申し訳なく、それでいて淡々とそつなくやれてしまっていたことを、書いていて思い出しました。まるで仕事の引継ぎか申し送りのような日常な電話でした。
今思うと、定期検診をしていたから見つかったわけで、白血病キャリアとしては口腔ケア&キュアはしておいて悪くなかったなと。
2.治療について:治療方針をどのように決定したか?検索した情報サイトがあれば教えてください
~白血病のとき~
まな板の上のシンジ
21歳、シン・社会人でした。幼少からお世話になっている街の内科医院を受診して、今や慣れてしまった採血をイヤイヤしてもらいました。この医院が治療の扉を開いてくれました。
自分も家族も大事件の当事者で、右往左往もできず、立ちすくんでいました。医院が紹介する病院は東京か地元横浜。「近い方が」という家族の判断で、横浜の病院に決定しました。
当事者として決定した方針としたら、それくらいですかね。
なにせパソコンもなければインターネットにアクセスできるデジタル端末もないという、ガラパゴス患者でしたから、まさしくまな板の上のシンジでした。
医師の話は理解できなくても聞いた。そして看護師、看護助手にも聞いた。問うた。
「どんな状態に今置かれているのか、何が待ち受けているのか、そしてどう変化するのか」
その繰り返し。
治療の、患者としての、段取りと立ち居振る舞いを、やれる範囲で今を消化していく日々だったでしょうか。
感情を置き去りにしないと明日に挑めない。患者としての基礎を叩きこまれた、そんな季節でした。
“自分の身体のことは、自分が一番わかっていない”
そんな季節に実感したのはこの言葉ですね。言葉遊びみたいに思いついただけなんですけど。でも本当にそうで、自分に目を向けられるのは幸せなことでもある気がします。やっとですけどね。
寛解・自宅療養(経口抗がん剤、免疫抑制剤あり)・再発、そして造血幹細胞移植へ
最初の入院時点で家族3人とのマッチングはなかったことをあとで聞いて、“再発”という二文字の重さは私だけのものではなかったと知りました。
思い巡らせましたね――。再発の時点で移植を前提としたお付き合いでしたから。不安とも、恐れとも、未知の領域だったので、未だにシックリくる当時の心模様を捉えられてはいませんね。
でも、骨髄バンクにはマッチするドナーがいてくれている。
「先生、やろうと言ってくれ」
「よし、やろう」
こんな、自分の病室へ至る廊下での立ち話でした。
“背中を押してもらいたかった”
母と共に受けた最大の治療方針でした。
~右頬粘膜がんのとき~
多少ほったらかしたのが、いけなかったかな? 早く何かできたかも…
最初の診察・生検は平気そうなことを書きましたが、それも一瞬でした。“もう、大丈夫”みたいなものが頭に住み着いていたのかもしれません。血液内科は年一の検診でしたし。
“あの季節を、全く違うアプローチで体感しなければならないのか…” 不安というより、現在進行形の患者にスイッチングするのがすごい負荷となりました。
「今までの治療履歴から、抗がん剤は使いません」
白血病でかなりの量を使っていたということでしょう。切除術のみの対応ということでした。
別の治療や別の病院など、選択肢はあった(ある)と思いますが、前述した“負荷”が、それをさせませんでした。また、入院・手術の手配を迅速にしていただいたことも一つの要因で、常連の病院でGOとなりました。
~右舌上皮内がんのとき~
2度あることは3度ある!?。やめてほしいわ…
方向性は前回と同様でした。常連の病院でGOとしました。
ただ、今回は舌です。口腔ですが状況は全く違います。
食べることは? 味覚は? 話すことは? 感覚は? 舌は動く? 舌がなくなる? とどのつまりどうなるの私の舌!って感じでした。こればかりは医師や病院を変えたところでなるようにしかならないことでした。お陰様で全部大丈夫でしたが、今でも舌の半分に痺れと、自由に舌を動かせない後遺症が残っています。
前回同様にリハビリが地味に辛く、根気のいるもので、結構メンタルにきてました。
これが引き金だったのか、リハビリ以外にもだいぶメンタルに負荷があったのでしょう。退院まもなく原因不明(詳細は調べきりませんでしたが)の外転神経麻痺を右目に患いました。結局、梅雨から真夏を超えて秋口まで仕事を休職して、状況をやり過ごしました。
それにしても子どもの時から、“おまけ”が好きな私です。
私にとって、これまでの治療や生活をやり遂げられている一番は、家族です。家族なしでは考えられません。みんな一緒に生きようとしてくれた。特に母は「どうしようか」と一緒に考えてくれた。
“ありがとう”
3.がんを体験したからこそわかったこと、伝えたい思いを教えてください
人知れずに、ささやかな光を目指して、今日も汗みどろで生き抜いている皆さんに、伝えたい思いなど…。なので、瘦せっぽちの男が独り言を言っているのを、聞き耳程度で聞いてやってください。
“ずっと、腑に落ちていなかった”
白血病をやって、いつしかこんな言葉が心に渦巻くようになりました。
新しい人生で、闘病生活とは違う、良いも悪いも僅かに経験することをようやく出来てきていました。
2回目の入院中に、“客観的に誰かに聞いてほしい”という衝動が起き、勇気を振り絞り院内の相談窓口のドアを叩きました。
叩いた答えは「具体性のない相談は受けられない」でした。“気持ちの部分を受け入れる器”が当時あったのかわかりませんが、それ以降ドアの近くに足が向かなくなりました。
“やはり一人なんだ”
“求めるには私一人から始めるしかない”
そう痛感した一日でした。
3回目の入院当日だったでしょうか、「緩和ケアを利用してみませんか?」と、精神科医・臨床心理士・薬剤師・がん専門看護師で構成するチームで病室を訪れてくれました。
「はい。お願いします」
「腑に落ちてないんです。ずっと」
“もしかしたら”という思いで直球を投げ込んでみました。
ようやく“あの器”に出会えるのではと淡い願いを込めて。
私にとっての緩和ケアは“あした”を意味していました。
“退院後も緩和ケアを受け、これまでの言葉にならない気持ちを必死に言語化して、一つのピリオドと小さな壊れやすいスタートラインを得ることが出来ました。
“じっくり一人で考えきれたから辿り着けた” 私を再認識するターニングポイントとなりました。
そして、寄り添ってくれた緩和ケアのチームからは、「菅谷さんへのギフトだよ。すべて」と、はなむけの言葉を添えてくれました。
時を同じくして(外転神経麻痺の中)、患者会に参加し始めていました。これも緩和ケアの効果でした。
“病名は同じでも、その病名の前には、その人の名前が付く。何者でもない。一緒ではない”
“誰しもが違うのだということを、誰しもが同じだということを、認知・認識をする”
これまで感じていたこの感覚を、患者会で会う生きた(活きた)言葉や熱に触れて実感をしていきました。
いつしか私は、その患者会のスタッフとなり、なんの力も持ち合わせてはいませんが、仲間に支えられ、お蔭様の縁で繋がらせてもらっています。若年がん患者会ローズマリーです。
“あなたの声を聞きたい。聞きかじった言葉でもあなたの声で話せばきっと、あしたが見える”
すぐに話したい人、やっと話せる人。生きなおすのにはそれぞれ持っている私時間がありますよね。
いろいろな時間の初めてを支えられたらと思っています。
“一人でと思っていた。でもドナーが応援してくれていたじゃないかと、令和になって気づき直した”
“今はわかる、一人ではないことを。でも、その時がいつなのか誰にもわからない”
今回この寄稿が縁で、今までの思いに気づき直したり、一人だということと一人ではないということの、その両方の大切さを再認識できたことを、こころから有難いとこの場を借りて伝えたいと思います。
“変わることは恥ずかしいことではない。変わり続けることを信じていく”
これを新しい糧としていきたいと思います。
<患者会情報>
若年がん患者会 ローズマリー
ホームページ http://rosemaryjp.net/
若年がん患者会ローズマリーは、16歳から40歳までにがんを発症した経験者のための会です。
若年がん経験者がお互いの経験をわかちあい、これからのことをみんなで考える機会を持ちたいと願い、発足しました。対象は、40歳までにがん及び治療を経験したご本人です。会の運営をしているスタッフも、40歳までにがんを経験した当事者です。
この2年はZoomを使ってのオンライン交流会を年に4回程開催しています。
オンライン交流会は、いつもなら簡単に会うことのできない全国の人達と会うことができる、これも新しい縁だと思います。「皆様に寄り添っていける会を」と思っております。どうかお気軽にご参加くださいませ。スタッフ一同お待ちしております。
体験談一覧はこちら ⇒ 【体験談】